What I see

なにを見て、どう思っているのか。

TOSHIKI KIDA

TOSHIKI KIDA
木田 俊樹

Let's meet somewhere in the world
kida-journal.hatenablog.com/


近況 16_09_03

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本当の自分を取り戻す方法があるとするなら、7日間スマホをさわらないことでしょうか。いやいやそんなことできるわけがない、というのなら、スマホの電源を切って、だれも知り合いのいない場所に出向くことでしょう、1日でいいから。いやいやそんなことできるわけないというのなら、あきらめてください。現代は情報が氾濫しすぎている上に、簡単に手が届いてしまう。ときにそれを手放すことで、本来を取り戻すことができるのではないでしょうか。こんな素敵な本を読んだら、誰だって、どこか遠くにいきたくなるものです。

 

ジョゼフ・キャンベル(「神話の力」より)「コンピューターのスイッチを切って、自分の感情を信じたまえ」

 

星野道夫(「旅をする木」より)「いつかサハラを旅した友人が語っていた砂漠の”夜”もこんなふうではなかったかと思います。砂と星だけの夜の世界が、人間に与える不思議な力の話でした。きっと情報があふれるような世の中で生きているぼくたちは、そんな世界が存在していることも忘れてしまっているのでしょうね。だからこんな場所に突然放り出されると、一体どうしていいのかうろたえてしまうのかもしれません。けれどもしばらくそこでじっとしていると、情報がきわめて少ない世界がもつ豊かさを少しずつ取り戻してきます。それはひとつの力というか、ぼくたちが忘れてしまっていた想像力のようなものです。」

 

能登にて

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能登の珠洲にいました。珠洲は、金沢から車で2時間のところにある能登半島の先端部です。新幹線が開通したこともあり、金沢には多くのひとが訪れますが、もう一足必要な能登半島まで訪れるひとは多くありません。能登には、自分をからっぽにするためにと、文化や歴史、習俗とこれからについて考えるなにかがあるのではないかとおもって訪れました。

 

見附島から海岸線沿いを反時計回りに回ります。東の海岸線にある見附島をスタートに決めたのは、朝日が綺麗に見えるとおもったからでした。早朝、水分を含んだ重たそうなグレーの雲が空に広がっていました。なんともイメージ通りの能登からの出発でした。どこで作られたかわからない、能登らしいイメージを持って出発したものの、車で回るうちに、能登はどうやらぼくがおもっている、おもい込んでいる能登とは、違ったのです。

 

能登は北を上にした日本地図で見たら本州の真ん中上部から、ピョンと飛び出しています。ぼくはこれを端だとおもっていました。日本地図をひっくり返すと、能登は大陸に近いのです。日本海から吹く風は大陸からやってきて、切り立った海岸線を走る崖に、吹きつけます。見附島には空海が中国から密教を持ち帰ってきたときに寄ったという記述があります。

 

いま能登は中央から離れていて、交通の便も良くありません。よく習俗や文化は僻地に残るといわれていて、ぼくもそうおもっていました。能登を訪れると、そうではないとおもわされます。能登の家の大きさ、どの家にも敷いてある黒光りの瓦、農村部は散村で家の周りには大きな木々、加賀藩と前田家など、なにかをおもわせます。現地へ出向いて、あるいてみてきかなければわからないことはあって、それを感じるとますます知らぬ土地に行ってみたくなります。今度は泊まらねば。

 

能登をぐるっとまわってから、金沢に立ち寄りました。兼六園や21世紀美術館を横目に、大通りからすこし入ったところにある、鈴木大拙館を訪れます。展示されているのは空間です。椅子に座って、空間を見つめます。顔を上げると、壁に「鈴木大拙のことば」がありました。「旅行が容易で快適に過ぎれば、その精神的意味は失われる。これはセンチメンタリズムといわれるかも知れぬが、旅によって生ずるある孤絶感は人生の意味を反省させる。人生は畢竟、一つの未知から他の未知への旅であるからだ。」