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TOSHIKI KIDA

TOSHIKI KIDA
木田 俊樹

Let's meet somewhere in the world
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「日本語の外へ」とプログラミングと広重の雨

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片岡義男「日本語の外へ」を読み終えた。ぼくはこの本を読みながら、大学卒業前後からフィリピン留学のことを思い出した。

 

「自分というもののとらえかたから始まって、日常の極小的なものの考えかたから世界観という極大にいたるまで、人が頭のなかでおこなうことすべては、そして日本人の大好きないわゆる心というものも含めて、言葉を媒介にしておこなわれている。日本の人たちにとっては日本語が母国語だ。そのかぎりにおいて、言葉とは母国語のことだ。なにかについて少しでも考えるとき、その考えは母国語の構造や性能のなかでしかおこなわれない。」

 

多くはない大学に行ってよかったことのひとつに、プログラミングを学んだことがある。プログラミングとは、プログラミング言語を使って、意図した処理を行うよう、コンピューターに指示を与えること。入学するまでほとんどパソコンを触ったことがないのに(なのに、パソコンにネガティブなイメージを持っていた)、さいしょの授業でいきなりC言語を使ってソースコードを書きはじめた。自分がなにをしているのかわからなかった。嫌々ながら(できないから苦手だと思っていた)、やり続けたら、理解が深まるもので、2、3年経つと、パソコンの基本的なことを理解できるようになった。あるいはパソコンに対する抵抗がなくなった。それでも、ぼくはプログラミングのことを好きになれなかったので、続けようとはおもわなかった。

 

「他のどれだけ多くの人とどれだけ大きく異なっていても、Iというその人は本当にその人自身であり他の誰でもない。個人が持ち得る自由のなかで最大のものは、他の誰でもなく自分であるという自由だ。個人が持ち得るすべての自由の基本がここにある。Iという発言者は基本的には主観を述べる。出来るだけ多くの人の支持を得るには、その主観を可能なかぎり確かなものにしていかなければならない。もっとも確かなものは客観だから、すべての主観は客観をめざすことになる。」

 

そうおもってから、HTMLとCSSを除いて、手をつけていない。最近、プログラミングのことをほとんど忘れているなか、プログラミングの考え方というのか、コードを書いていたときのソース構成の基本的な考え方やアルゴリズムが、ぼくの頭に刻まれていたことに、気がついた。プログラミングを通して、コンピュータにまつわるあらゆる技術の本質や考え方、つまりコンピュータを開発した技術者(フラーやヒップスターたち)の考え方がぼくの頭に少し染み出したのだろう。

 

「英語の正しい使い方が身につくとは、客観を志向する英語という言語の能力の基本が、そのまま自分のものになるということだ。言語能力と同時に、頭は客観的に考える頭となっていく。」

 

簡単にいうと、条件分岐(if)と、繰り返し(for)だったり。なにかを考えるときに、この方法は役に立つ。具体的には、ちきりんの「自分のアタマで考えよう」(この著は、コンピュータの本では全くなくて、考え方の本ですが、おすすめです)。プログラミングは嫌いだけど、プログラミング的思考とコンピュータのバックヤードに隠れている信念がアセンブリされたようなものをぼくは大学で学んだ。

 

「文化は言葉が作るのだから、そこには文化が生まれようもない。文化がないとは、人間というものに関するさまざまな理解が、いっこうに深まっていかないことを意味する。人間というものに関するさまざまな理解とは、多くの異なった人たちの存在をすべて認めるところからスタートする。」

 

これから必要なものは、プログラミングと英語だとなにかで聞いた。

 

「因果関係の解明のための論理や客観、そしてそれらが生み出すさまざまな前進的な力、たとえば提案力、同化力、受容力などを理解して自分の思考回路にしているなら、発音が相当にひどくても、そして、文法的な整合性がかなり不足していても、その英語はどこでも美しく通用する。反対に、このような思考の枠の外にい続けるかぎり、一見したところいかに流暢でも、その英語はいつまでも信用されず、したがって真剣には相手にしてもらえない。」 

 

5年前、ぼくは大学を卒業してからフィリピンに滞在していた。目的は英語を話せるようになること。フィリピンのルソン島の田舎にある語学学校で、6週間を過ごした。

 

「動詞とは、アクションだ。アクションといってもただやみくもな行動ではなく、因果関係における因だ。因は理念と言ってもいい。理念にもとづく行動の上に、果という結果つまり責任が成立する。そして理念とは、現実世界では、対立とほぼ同義だ。より良い考えかた、より新しい考えかたなどは、それほど良くはない考えかた、もはや古いとしか言いようのない考えかたなどと、明白に対立する。対立して議論が重ねられると、より良いほうが選ばれ、そのぶんだけ社会は成長していく。」

 

結果からいうと、6週間ずっと英語を学びながら、自分自身について深く考えることになった。最初の授業で自己紹介をした。それから、先生に質問され、英語で答えていく。答える度に先生から返されるwhyにぼくは困っていた。最初のうちは、日本語やったら答えられるのになとおもいながら、英語で表現できないフラストレーションでイライラしていた。

 

「多くの人と話をすればするほど、そして議論を重ねれば重ねるほど、人は異なった立場や考えかたと直接に接することになる。自分のとは異なる立場や意見は自分を刺激する。それまでは考えてもみなかった新しい領域へと、自分は導き出されていく。独創や創造への最有効なきっかけは、他者との議論のなかにある。」

 

ところが実は、違っていた。先生のwhyに対する、ぼくの答えが薄っぺらかった。自分の信念や考え方の本質からのものでなかったからだった。そう、ぼくはぼくのことについて深く考えたことがなかった。「あなたはなにが好きですか。」「あなたはなぜそうするのですか」といった具合に。こうしてぼくはぼくのことについて、フィリピンで考えるようになった。 「文化は人が言葉で作っていく。言葉の程度が低いなら、程度の低い文化しか生まれない。」 言語としての英語を学ぶと同時に、機能としての英語をぼくは学んだ。機能としての英語と、自分自身について考えることの相性は、抜群だ。思考の経路が日本語とは全く違うから。じぶんのことについてまとまった時間で考えることは大切だ。多感な時期に。6週間考え抜いていまがあるとおもっている。

 

「自分というもののとらえかたから始まって、あらゆる物や事柄の認識、そしてものの考えかたから世界観にいたるまで、人が頭のなかでおこなうことすべては、言語を媒介にしておこなわれている。そして言葉とは、少なくとも日常的には、ほとんどの場合、母国語を意味する。日本の人たちにとって母国語は日本語だ。彼らがなにごとかについて少しでもかんがえたり思ったりするとき、その考えや思いは母国語である日本語の構造と性能のなかでしか、おこなわれない。人の頭や心は、母国語というひとつの強力な枠の内部にしか、基本的にはありえない。」

 

僕たちがりんごをりんごだとおもうのは、頭のどこかに、これがりんごだというりんごのイメージがあるから、りんごをりんごだと認識できる。セザンヌのリンゴのように。安藤広重の絵によって、ひとは雨を見えるようになった。

 

「自分自身も含めて世界のすべてを、自分はそのあるがままにとらえ認識しているはずだ、と多くの人たちは思い込んでいる。けっしてあるがままではなく、日本語という母国語の構造や性能というフィルターをとおして、人や物や事柄そして世界をとらえている。」

 

当時、西洋の絵には、雨がなかった。西洋の雨の絵には、傘をさすひとは描かれていても、雨は描かれていなかった。それが雨の絵だとわかるのは、傘をさすひとが描かれていたからだ。一方、同時代の広重の「大はしあたけのゆうだち」には、雨が描かれていた。広重の雨は、線によって表現される。この瞬間、ひとは雨を見ることができるようになった。絵でも、音楽でも、なんであれ、見えないものを見えるようなったり、そういった感覚を醒ますことのできるものを、芸術と呼ぶのだとおもう。

 

「人がなにかを考えたり思ったりするとき、そこにはかならず言葉がある。いちいち言葉なんか必要ないよ、というのが日常的な実感かもしれないが、言葉なしには人間はほとんどなにも出来ない。そして自分が自由に使うことの出来る言葉、つまり母国語の構造と性能の内部で、そこから多大な影響を受けつつ、人は日々を生きていく。」

 

本を読みましょう。ひとと会いましょう。旅をしましょう。

 

「目の前に、身のまわりに、いたるところに、世界がある。世界にはさまざまな物や出来事が満ちている。人が世界というものを認識しようとするとき、世界ぜんたいをそのままとらえることは、とうてい不可能だ。 世界はあまりにも大きくあまりにも複雑であり、しかもあまりにも支離滅裂だ。ひとりの人の頭が世界をとらえるときには、とらえやすいように極端に整理したうえでとらえなければならない。そのとき、どうしても必要なるのが、言葉というものだ。」

 

母語を広げることでしか、世界を広げることはできない、なぜなら世界は言葉でできているから。

 

「自分の言葉で世界のなかのすべての用は足りる、と思ってしまう。しかし、その人が理解したり自分の言葉で言えたりするのは、その人に使うことの可能な母国語の機能範囲内でのことにしか過ぎない事実を、多くの人は全く自覚していない。」