What I see

なにを見て、どう思っているのか。

TOSHIKI KIDA

TOSHIKI KIDA
木田 俊樹

Let's meet somewhere in the world
kida-journal.hatenablog.com/


近況 17_06_05

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部屋から時計を取り除くと時間がゆっくりながれるのか、という実験報告をそろそろしようとおもう。ええ、ぼくが勝手にはじめた自由研究です。時計を部屋から取り除いてから、自由になった気がします、感覚的に。これは最近のぼくの大発見です。気のせいだろうか。ぜひやってみてほしい。ひとはみな同じ時間を持っていて、誰にとっても24時間は24時間だし、1分は1分です。使い方次第で、その1分の質は高くも低くもなります。友人に部屋から時計を取り除いたというと、怪訝な顔で時間がわからないと、不安にならない?と聞かれます。現代に生きていると、確かに時間を気にしなければいけません。明け方や夕暮れ刻に鐘の音を聞く代わりに、時間を知りたければスマホの画面をみています。無意識に時計が目に入てくるのをやめて、時間を知りたいときは自分から見にいく。そうするだけで時間の質がかわることを実感できます。こういうことって同じようで、同じではないとぼくはおもっています。

 

そういえば最近は山本七平「日本人とは何か。」を読んでいます。かなと不定時法に興味がわいていまして、時間について考えたり、定時法(一般に使っているカレンダー)とは別に、二十四節や自然(月)のカレンダーを取り入れることが大切なんじゃないのかとおもっています。(以下、山本七平「日本人とは何か。」より 不定時法時代の時間感覚は明るいかどうか)

 

人類の長い歴史において、灯火によって昼を夜へと自由に延長できるようになったのは最近のこと、それも電気が自由に使える先進国のことであって、昔は昼と夜で生活の仕方を変えねばならなかった。こういう時代には、日出・日没が生活の区切りとなる。そしてその区切りの中で、時を区切ったほうが便利であった。いわば生活に密着したときの計り方、言いかえれば「生活時間」であり、そこで徳川時代には、天文暦学の専門家はこれを用いず定時法を用いており、一般人は「生活時間」に不定時法を用いていたわけである。これを日本的にいえば「明け六つ」と「暮れ六つ」で一日を区切り、その間をまた区切るということである。こういう時代には、今の時計のように、二十四時間、同じ速度で針がくるくるまわっている時計などは不便で使えなかったのであろう。

 

一般人が結局、日出、日没、太陽の高さ等で概略の時間を計るという生活、いわば「不定時法的生活」をしていたわけで、これは当時の灯火を考えれば当然のことであろう。(中略)日本のように四季のはっきりしている国で暦が狂うと農業は大きな被害を受ける。従って日本人は太陽暦との間で一年に11日の誤差を生ずる純然たる太陰暦は用いていおらず太陽運行に合わせて修正する陰陽暦を中国から導入している。(中略)この暦は19年目にほぼ太陽暦と一致する、ということは暦と季節がほぼ一致するわけだが、その間にはある程度のずれを生ずる。このずれも日本の農業にとっては問題なので「二十四節」という立春を基準とする太陽暦の農業暦も用いていた。

 

太陽が地平線下に入っても、光の屈折・散乱のため相当に明るい。これは太陽が出るときも同じで、これが「黄昏」「薄明」である。そして不定時法は生活時間だから「明るい間」は昼である。

 

黄道(太陽の軌道)を24等分して、その点を太陽が通過するときを基準に、太陽の黄経春分0度、秋分180度として15度ずつ区切り、立春(冬至から45日)ではじめている。そして一日を百刻に分け、薄明・黄昏を加えて「明け六つ」「暮れ六つ」を決定した。

 

昼と夜がほぼ同じになるのが春分・秋分ではなく、(中略)前者は春分の約一ヶ月前、後者は秋分の約一ヶ月後になっている。これはいずれも、「明るい」という感覚が基準になっている。

 

ぼくたちが自然とそう感じる感覚(いい天気だなとか、翳ってきたとか)というのは、こういったも文化の影響を一心に受けていると実感できます。さて、もうすぐ夏休み、自由研究のはじまりです。ひとは2食で生きれるのか。部屋からゴミ箱を取り除いたら部屋はきれいになるのか。旅はひとを幸せにするのか。Facebookをやめれば事由になれるのか。母語を学べば、自由になれるのか、いろいろ試してみたくなります。