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TOSHIKI KIDA

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木田 俊樹

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本を読みはじめるまえに、読むべき本 松岡正剛「多読術」

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理由を忘れたけど、2、3年前に本を読みはじめた。本をたくさん読んでいるひとをかっこいいとおもったからなのか、運命の一冊に出会ったからなのか、その両方か、はたまた、別の理由か、なにも覚えていない。部屋をそうじしていたら、本を読もうとおもいはじめた当時に、読んだ本のことを思い出した。その本が、松岡正剛「多読術」だった。

 

なぜこの本を読んだのか。思い当たる節をおもいあたってみる。僕の性格と本のタイトルからして、これは、まちがいなく、本を読むことについての本を、本を読む前に読もうとおもったのだろう。「これに効きます。副作用もありますので、用法容量を守ってください」と、本を読むもっともらしい理由や、本を読んで得られる効用を、本を読みはじめる前から得ようとおもったのだろう。そんなこと気にせず、どんどん気になる本を読んでみればいいのにとおもう。いまとなっては。

 

振り返ってみることでしか、見えてこないものがある。僕がいまおもう本を読むことの効用をいくつかざっとまとめてみると、こんなものだろう。

 

1)類推(思考の変化) いまこうして、本の効用について考えを巡らすだけで、ニヤニヤしている。それもこれも、いまある僕の考えは、僕の経験だけから出てくる言葉ではなく、僕が読んだ本に表現されている他人の言葉のようなのです。あることを考えていると、芋づるのように、ぽんぽんと他の考えも引っ張り出てきて、その瞬間に頭の中で、混ざり合う。それはただの類推や仮説なわけで、自分勝手でわがままなんだけど、ものすごくおもしろい。宮本常一の本(「塩の道」がおすすめ)を読んでから、旅に出ると、世界を見る目が変わる。いろんなひとが同じものを見ていても、ひとによって違って見えたりするし、自分がそう見えたとき、はじめて自己を猛烈に意識する。

 

2)ハイパーリンク(リアルの世界にも、本の世界にも張り巡らされている) ハイパーリンクはwebサイトにあるリンクのことで、クリックすると関係ページに移動するあれです。何冊も本を読んでいると(特にテーマを決め込んで)、よく出会う名前や本があることに気づく。そんな偶然の出会いを必然のように感じて、次にその著者の本を手に取ってみると、おおかた、僕にとって効果的だった。星野道夫の「旅をする木」を読んだあと、ジョゼフ・キャンベルの「神話の力」を読んだときには、鳥肌がたった。

 

3)読後感(うまみ) レイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど、役に立つこと」を読んだとき、呆然と立ち尽くした。日付が変わった頃に、24時間営業の郊外にある大型スーパーの誰もいない駐車場にライトに照らされてポツンとひとり立っている感じ。じわーっとくるあの読後感はやめられません。(読まなければ、好きか嫌いかもわからない。)それだけでなく、読中(読書中)にも、うぉーこれやばいなーとおもって、読み進めたら、いつのまにか、午前3時を回っていて、6時に起きなあかんのにとおもいながら読み終えることがある。好きな食べ物を前にして、食べてないのに唾液が出てくるあの感じが、読書にもある。

 

4)うやむやなことの言語化(整理) うまくいいたいけれど口に出せないことや、ひとりで、もやもやしていることを、「まさにそれそれ」と本が語ることがよくある。この調整と呼ぶべきものもひとつの効用だ。5年前に英語を学びにフィリピンに行ったときに、先生のWhy?に、即答できなかったのは、英語の表現方法を知らなかったせいではなく、僕の発言には僕の考えや本質を伴った行動がなかったからだと、片岡義男「日本語の外へ」を読んで、それそれとおもった。

 

ざざっといくつかまとめました。こればっかりは、独自の読書ルールを決め、テーマを絞って、一気呵成に量を読みはじめて、数年たった、いま振り返っておもったことなので、その効用は僕だけのものかもしれない。以下は、「多読術」で正剛さんが語る本を読むときに確信していることです。

 

第一には、読書は、現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるものだと確信していることです。

 

第二に、そもそも思考や表現の本質は「アナロジー」であり、「連想」であるということです。

 

第三に、ぼくの元気が出てくる源泉や領域は、みなさんには意外かもしれないけれど、必ずや「曖昧な部分」や「きわどい領域」や「余分なところ」だと確信しているということですね。

 

再読して、当時の僕といまの僕とのズレを感じることもひとつの効用ですかね。効用、効用とばかりいっているけど、結局のところ、ぼくが読書をするのって、正剛さんもいうように、「読書はわからないから読む。それに尽きます。」からなんだろうな。まだまだわからないことだらけだ。