What I see

なにを見て、どう思っているのか。

TOSHIKI KIDA

TOSHIKI KIDA
木田 俊樹

Let's meet somewhere in the world
kida-journal.hatenablog.com/


いい写真を撮るときの、考え方について学ぶための一冊

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写真の見方が変わった。職業写真家の撮る写真は、僕たちが日常で手軽に撮っているスナップとは別のものだった。写真の中には、その時代の匂いやオーラを感じるものがある。そんな写真はどんなものなのだろうか。土門拳の「写真随筆」は、新たな写真の見方の発見を手助けしてくれる。だって、僕は、写真て写真でしょとしか思っていなかったから。

 

セザンヌがリンゴを描いて以来のリンゴは僕たちにとっては、リンゴはセザンヌの描いたようであった。もはやセザンヌの描く以前のリンゴとは違ってみえてきた。そして、そう見えた時に、リンゴはまた一つの概念として固定した。 ピカソがリンゴを描いて、セザンヌ的に概念づけられていた僕たちのリンゴをブチこわして、再び、新しいリンゴにした。つまり、セザンヌが発見しえなかったリンゴの別の真実をピカソが発見してくれたのである。

 

写真をただ撮っているだけではない、ということを知りながら撮られた写真を見ることって、おもしろい。たとえば、その写真を撮った人が撮った場所を、写真から推測できる。低い姿勢とか、そこから撮る意味とか。たとえば、写真の被写体(モチーフ)のことを、ものすごく知っていたら、一番輝く瞬間を撮影できるのではないだろうか。なんてことを思った。 写真って、ある時代のある瞬間を切りとって後世に残す方法のひとつだものね。

 

レモンをレモンらしく撮るなんてなんの意味もない。レモンはあくまでレモンなんだ。それを撮った写真がレモンにそっくりだって意味がない。実物の方がもっとレモンにきまっている。問題は写真にそれを写してどういう意味を持つかということなんだ。

 

一枚の写真がある。その写真を撮る人が、何を考えていて、その写真のモチーフについて何を知っていて、どう感じていいて、それをどう撮るのか。その時代のその場所にしかない色や匂いやオーラ、歴史的背景や文化、民俗のことを考えて、それを写真(技術、アングル、シャッタースピード、露出)で表現しているんだ。

 

じゃあ、なにをすればいいのか

本著、土門拳「写真随筆」の初版は1979年、約40年前になる。その当時、カメラは誰もが持てるものではなかった。カメラを持っていても現像にお金も時間もかかった。金も時間もかかるが、それでも、撮りまくれと土門拳は言う。そして現在。カメラは誰もが持っている。現像はデジタル現像があり、お金も時間もかからない。その問題は、テクノロジーが解決してくれた。それじゃあ、いま写真を撮るときにすべきことはというと、写真を撮りまくることと、被写体(モチーフ)のことを熟知することなのだ。

 

われわれの努力は、眼に見えるものを通して、眼に見えないものをいかに眼に見えるようにするかということだね。

 

ぱっと見てきれいな写真はおそらくすぐに撮れる。いいカメラを持っていればなおさら。いまなら安くて(手の届く)いいカメラがたくさんある。コンデジで4K動画が撮れる時代なのだから。 だからこそ、ハード(カメラの良し悪し)よりソフト(考え方や世界観)のほうが大事なんだろうな。そうじゃなければ撮れない写真はやっぱるあって、撮る対象のことを熟知していてはじめて撮れる写真なんかがそうだろうな。

 

何が彼をそうさせているかということを歴史的に、社会的に考えるだけの鋭い、そして暖かい世界観を持つことなしには、いくら靴みがきの浮浪児にカメラを向けようとも、正しいカメラ・アングルとシャッター・スピードは掴めないのである。

 

そんなことを考えながら、カメラを持って、出かけようとおもう。ものの見方はひとつではない。別の視点を得ること、新たな見方の発見に興味津々。本を読むことも、人と会うことも、どこかに出かけることも。