What I see

なにを見て、どう思っているのか。

TOSHIKI KIDA

TOSHIKI KIDA
木田 俊樹

Let's meet somewhere in the world
kida-journal.hatenablog.com/


世界の変え方 自分の強い意志は背中を押してくれる

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世界中の物語が、同じこと(隠喩、メタファーとして)について語っていたら、それって、おもしろいと思いませんか?そんなの当然でしょと思うかもしれない。それが、インターネットのない時代に、部族や宗教、大陸や言語、年代や文化を超えて、世界中で、語り継がれてきたことが、ある共通性を持っていたとしたら。そのことから、学ぶことって、おもしろい。ジョゼフ・キャンベル「神話の力」を読んでそう思った。

 

消えた神話の力

僕たちは神話を理解する能力を失ってしまった。それは、社会的な儀式が形骸化しているからなのかもしれないし、見えないものを信じられないから、なのかもしれない。予測の立つできごとや、計算できることは信じられるけれど、もっとはるか先のこと、目に見えないことは信じられないでいる。原因はわからない。

 

だから、ひとには神話が必要だと思う。今日では、神話の力はなくなってしまったようだ。あるいは、神話を読み取る力を失ったようだ。依然として、人間の肉体構造はかわらないのに。いずれにせよ、現代的な神話、現代生活に合った神話が必要なのだ。それはなにかと考えると、聖なる場所つまり、自分の時間なのだ。ソロで行く旅もそのひとつ。それは社会や学校が用意してくれるものではない。

 

今の私たちの生活は、その方向性において非常に実際的、経済的なものになっています。だからみんな、ある程度の年齢になると、次から次へと目先の用事に追いまくられて、自分がいったいだれなのか、なにをしようとしていたのか、わからなくなってしまう。(本文より)

 

神話とは

 

見えない世界というのはなにかというと、バカげていると思うかもしれないけれど、自分の世界は自分のものだということ、つまり、世界は自分の強い意志で好きな方向に変えられるということ。信じないでしょ?できないと思っているでしょ?だからできないんです、できないと思っている強い意志がそこで働いているから。

 

できると思って、動き出しましょう。そうすれば、実は、あらゆる環境や出会う人が自分にとって、あたかも誰かに背中を押されているように、誰かの書いた小説の中を進むように、物語が展開していくのだ。振り返ってみれば、出会うべくして出会ったり、思い通りにことが進んだことがある。そう思って、つまり、自分の至福を求めて、動き出すと、目の前に大きく立っている不安が、ないものとして感じることができる。神話の力はそんなようなものなのだ。神話から学ぶことは、「心配せずに自分の至福を追求せよ」ということなのだ。そして、神話は信じるものにしか、語らないというのだ。

 

<見えざる力>の使者である動物たちはもはや。原始時代のようには、人類を教え導く役割を果たしていない。熊、ライオン、象、大角ヤギ、羚羊などはわれわれが訪れる動物園のおりのなかにいる。人間はもはや未開の原野や処女林の世界にやってきた新参者ではない。われわれのすぐそばにいるのは野獣や野鳥ではなく、火の星の周囲を絶え間なく回っている惑星の上で、物と空間とを争いあっている同じ人間どもである。われわれは肉体的にも精神的にも、数十万年続いた旧石器時代の狩猟民族の世界に住んでいるわけではない。にもかかわらず、われわれの肉体の形そのものは、また、われわれの精神構造も、彼らの生活とライフスタイルに大きく負うている。彼らの使者である動物たちの記憶は、なぜかまだわれわれの内に眠っているに相違ない。その証拠に、われわれが未開の地に足を踏み入れるとき、それらはふと目覚めて動き出す。それらは稲妻の光を見ると驚いて目を覚ます。そして、われわれが原始的な壁面のある大洞窟を訪れるときも、それらはやはり目を覚まして、太古を思い出す。そういう洞窟のシャーマンたちが恍惚境に入ったときは、内面的な暗がりのなかに陥ったことだろうが、それがどんなものであれ、同じ暗がりがわれわれ自身の内部にもあって、われわれは眠りのたびにそこを訪れているに違いない。(本文より)

現代の神話

 

わかっているようで、わかっていない、人の手ではコントロールできない力があることを知らなければいけない、体験的に。少し前には狩猟や農耕があった。自然は手に負えないし、野生動物もまたそうだ。現代でそんな力が働いていることを知るために、現代の神話と呼ぶべきものが必要なのだ。旅に出て、自分について考え、いろんな人に会う、必然のような偶然のなかに。それはあたかも、英雄のイニシエーションの旅のように。さて、梅雨も明けた。やりたいことは、山ほどある。どれから手をつけようか。

 

これは今日すべての人にとって必要不可欠なことです。今朝の新聞になにが載っていたか、友達はだれだれなのか、だれに借りがあり、だれに貸しがあるか、そんなことを一切忘れるような部屋、ないし一日のうちのひとときがなくてはなりません。本来の自分、自分の将来の姿を純粋に経験し、引き出すことのできる場所です。これは創造的な孵化場です。はじめはなにも起こりそうにないかもしれません。しかし、もしあなたが自分の聖なる場所を持っていて、それを使うなら、いつかなにかが起こるでしょう。(本文より)