What I see

なにを見て、どう思っているのか。

TOSHIKI KIDA

TOSHIKI KIDA
木田 俊樹

Let's meet somewhere in the world
kida-journal.hatenablog.com/


Long time no trip

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2016年、梅雨、現在、どこにも行けていない日々。梅雨のせいなのか、いろんなことが、内向きなことに吸い寄せられている気がしてなりません。こんなときには、おもいっきり気持ちを遠くに、重い体も遠くに、力づくで運ぶに限ります。そのキッカケとなるのは、やはり、昔の手記だったり写真なのかもしれません。梅雨の合間にそんなものを読み返していると、少しづつ少しづつ外向きのパワーが、積み重なってゆきます。

 

旅の手帳より

2015年8月、上高地でのこと。

 

数日前に上高地にいました。8月とはいえ上高地の朝はもう秋のようで、凛としています。すこし肌寒く穏やかで引きしまった朝はいつも、これから起こることへの胸の高鳴りが聞こえる気がします。昨夜のうちに、梓川に沿って走る国道158号を遡上し、目的地近くの道の駅、車中にて浅い眠りに落ちました。

 

草原では、今宵の明星の光がだんだん弱まり、残照も散って、間も無く完全な夜が来て大地を祝福し、あらゆる川を黒く染め、山頂を覆いつくし、最後の岸辺を抱き寄せるだろう。(ジャック・ケルアック「路上」より)

 

夜が去り、朝が来る。朝は目に見える速度でゆっくりとやってきて、東の空から射す光が目に見えるものすべてに色を塗っていく。その気配にじっとしていられなくなって、歩きはじめました。午前4時20分。上高地行きの始発バスに乗り込みました。

 

はじめて上高地に足を踏み入れてから10年以上が経ちました。そのときは乗鞍への自動車の乗り入れが規制される前の年だったこと、夏なのに寒かったこと、芥川龍之介の「河童」を読んで、どうしても訪れたかったことを覚えています。それ以外のことをはっきりとは覚えていません。いつも心の底にあのときの夏の上高地が居座っているのを知っていました。それを心象風景と呼ぶそうだ。記憶の中の形、色彩、匂い。

 

僕のほか数名を乗せたバスが大正池に到着しました。朝に池を覆っていた靄が、気温の上昇とともにゆっくりと晴れゆく。北アルプスの稜線が現れるあの瞬間、鏡のように静かな大正池に映し出される北アルプスの山々、森の中に突然現れる赤い屋根の帝国ホテル、ブナ、トウヒ、シラカバ、カラマツ、ヤナギの森、森と同化している穂高神社の鳥居。山から下りるときにはもう上高地が恋しくなっていました。秋と冬のあいだ、紅葉した葉っぱが落ちて道を覆う季節に戻ってきたい、そう思っています。

 

私たちには、時間という壁が消えて奇跡が現れる神聖な場所が必要だ。今朝の新聞になにが載っていたか、友達は誰なのか、だれに借りがあり、だれに貸しがあるのか、そんなことを一切忘れるような空間、ないしは一日のうちのひとときがなくてはならない。本来の自分、自分の将来の姿を純粋に経験し、引き出すことのできる場所だ。これは創造的な孵化場だ。はじめは何も起こりそうにもないが、もし自分の聖なる場所をもっていてそれを使うなら、いつか何かが起こるだろう。人は聖地を創り出すことによって、動植物を神話化することによって、その土地を自分のものにする。つまり、自分の住んでいる土地を霊的な意味の深い場所に変えるのだ。

(星野道夫「旅をする木」のオオカミより)