What I see

なにを見て、どう思っているのか。

TOSHIKI KIDA

TOSHIKI KIDA
木田 俊樹

Let's meet somewhere in the world
kida-journal.hatenablog.com/


読後の楽しみ

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読後の楽しみにしていることがあります。松岡正剛さんの千夜千冊というサイトを覗くことです。千夜千冊は、松岡正剛さんの書評がまとめられたサイトです。同じ著者の本は2冊以上取り上げない、同じジャンルは続けない、最新の書物も取り上げる、などのルールで運営されています。タイトル通り、一日一冊ずつ取り上げて、千日続けて書評が書かれています。

 

松岡正剛さん、只者ではありません。鋭い、鋭すぎる。例えばこんな感じで。

 

1377夜 ミヒャエル・エンデ「モモ」

 読書には「ドッキ」というものがある。ドッキは「読機」だ。その本をいつ読んだのかということ、いつ通過したのかということ、そこにその本とわれわれのあいだにひそむドッキがある。

 

 ドッキは容易には掴めない。だからドッキなのである。念のために言っておくが、果物に旬があるようにその本に旬があるのではない。そんなものはない。どんな本もその気になればいつだって旬になる。これはシュンドクというもので、「旬読」という。旬読は版元がそれをこよなく願っていて、その本が時代の中に提示されたときに買って読むことが大いに期待されているのだが、けれども本そのものには、実は旬はない。アリストテレス(291夜)も太宰治(507夜)もつねに旬なのだ。だから本というものはいつだって旬読を待っている。

 

 ところが旬読はなかなかおこらない。それを読み食べるこちら側の時機に問題があるからだ。その本をいつどんな心境やどんな状況で読んだかが、その本についての印象や感想にひどく関係してしまうのに、それがずれるため旬読がおこらない。これはドッキのせいなのである。

 

 ドッキはそもそもが潜在的なものなので、これを制御したり有利にすることはできない。太宰の『女生徒』や『葉桜と魔笛』をぼくが読んだのは高校時代だったけれど、このときはドッキがよかった。だからやたらに感動した。だからといって、こういうことを自慢してもしょうがない。セレンディップな恩恵として有り難く感じるしかない。ドッキとはそういうものなのだ。

 

239夜 宮本常一「忘れられた日本人」

 本書が描いている日本は「無字社会の日本」である。ということは語られてきた日本、あるいは記憶の中の日本ということだ。

 

 文化というものには「記録の文化」と「記憶の文化」というものがある。記録の文化は文書となり絵巻となり建築となってしっかりと歴史の一時期を告げている。解読可能な文化である。しかし記憶の文化というものは語り継がれ、身ぶりとして継承されてきたものが多いだけに、漠然としているし、一つの記憶だけですべてを再生することはできない。語りをする者たちのあいだには食い違いもあるし、記憶ちがいもある。したがって、いくつもの語りをつなげ、そこから流れを引き出してくる必要がある。

 

 宮本常一はそのエキスパートだった。昭和14年から日本列島を歩きまわり、そこに留まり、多くの常民たちの話を聞き、それを文書や農具や民具にあたり、また聞きこみ、そして膨大な推理を確立していった。

 

本を読むときに、好きな書店で一目惚れしたものを手に取るのもいい。信頼のおける友人のおすすめも好きだ。たまには鋭い読者の批評もいい。googleで、「松岡正剛 読んだ本の著者名」で検索。なんか、しょぼい広告みたいだ。まあいいか。