伊賀上野の銭湯、一乃湯
ひさしぶりに友人に会う日が続きました。数年ぶりに会う人たちと、お互いの近況報告にはじまり、これからのことなどいろんなことについて、話をするうちに、はっきりとしないことが増えてきて、気になりはじめたので、ちょっと、ふらっと洗い流してきます。
「今夜は月が綺麗だとひとりつぶやくとき、心が本当にそれを求めている」という金言がある。嘘です、今作りました。
サハラ砂漠でラクダに乗って見る夕日がきれいなのも、富士山山頂から見るご来光に感動を覚えるのも、旅先で出会う親切なひとに感謝するのも、ジャズピアノが体に染みるのも、そもそもそれは、体が疲れているから(精神が疲れていることもしばしば)だ。健康な状態でそうは感じない。
目的の場所にたどり着くまでに知らないところで、体力は奪われていく。目的地に着いたとき、ひとは死の一歩手前まで追い込まれていて(比喩ですよ)、生理的なことしか、つまり、シンプルなことしか考えられなくなる(受け入れらなくなる)のではないか。
つまり、何かについて考えるときに、どこか遠くに行くことは、あるいは苦行を行うというのは、合理的なのだ。自らそういった環境に身を置くようにする。それがシンプルな考え(直観)を引き出すための方法なのだと思う。そんな言い訳のようなことを言いながら、僕はたびたびどこか遠くに出かける。それができないとき、車で少し走って、温泉に入って、高温多湿の中や灼熱の中に長時間、我が身を追いやり、修行をして、新しい自分を手に入れ、甦える。そして、「いい気分だ、生き返った」とつぶやく。
今読んでいる、ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」に、英雄の冒険でたどる道の典型が書いてあった。
英雄はごく日常の世界から、自然を超越した不思議の領域へ冒険に出る。そこでは途方もない力に出会い、決定的な勝利を手にする。そして仲間に恵みをもたらす力を手に、この不可思議な冒険から戻ってくる。