What I see

なにを見て、どう思っているのか。

TOSHIKI KIDA

TOSHIKI KIDA
木田 俊樹

Let's meet somewhere in the world
kida-journal.hatenablog.com/


伊賀焼陶器まつり2017に行くまえに

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だれもが同じものを見るなか、ひとと違った見方をするのが、陶器まつりの楽しみかたのひとつではないでしょうか。

秋岡芳夫『暮らしのためのデザイン』

普段なにも考えずに使っているものには、うまく隠れているものがある。「ピンと立てたネコのひげは幅がそのネコの腰の幅と全く同じになる。逃げるネズミを追いかけて狭いところを通るのに、ネコのひげはアンテナになる。このすき間、通れるか通れないかを瞬間的に計るモノサシの役目をする。人間の使う道具も、体の寸法に合わせて作ってあるものは使いやすい。」「人間の掌をモノを握る格好に丸めたときの径は身長の二十分の一だという。手で持って使うものの寸法を手に決めさせた古今東西共通のこの考え方。もっと見直したい。」特別意識しなければ見えてこないデザインが、茶碗やコップにはあります。そんな暮らしの秘密を知ってたら、手にする器は違って見えるのでしょう。陶器まつりでお気に入りを見つけるヒントに最適です。手にもつものはなんでも「手で計って買う」のがいいようです。

 

司馬遼太郎『故郷忘じがたし候』

秀吉の朝鮮出兵から約400年、薩摩軍によって日本に連れてこられた朝鮮の民。それ以来、名を変えずに、鹿児島の苗代川に住みつづける陶工のはなし。作中で、橘南谿が当時の苗代川の住人に問うと、その老人は「なるほど200年近くも相成り、しかもこの国の厚恩を受けてかように暮らしております上はなんの不足があるはずもございませぬが、ひとの心というものは不思議のものにて候。故郷のことはうちわすれられず、折にふれては夢のなかなどにも出、昼間、窯場にいてもふとふるさと床しきように思い出されて、」と語りはじめます。タイトル「故郷忘じがたく」という言葉、まさにこの話を言い表しています。猛烈に「日本人とは何か」を意識させられるのは、司馬遼太郎が、あえて核心を書かないようにしているからなのではないでしょうか。そうです、器ひとつひとつに、物語があります。そういう見方をすると、まったく違った器が見えてきます。

 

明日から3日間、伊賀焼陶器まつりです

普段使っている器に隠れているデザインや、隠れている物語を知っていれば、まったく別の器が見えてきます。目の前の器をみて、さわって、目の合うものを手に取る。それが、良き出会いなのでしょう。

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ある日。山で寝転び空を見ながら、しばらく考える。「おまえは何者か」その問いを、ぼくは、普段から使っているもののなかに探している。それは、漢字であり、器であり、食べ物であり、習慣であり、好みであり、音である。本来から将来を考えたい。

 

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ある日。冷蔵庫に、碁石茶を見つける。そういえば、6月に高知へ行ったときに、たまたま立ち寄った大豊町の道の駅で購入したことをおもいだす。日本に数少ない微生物発酵のお茶。そのころ小泉武夫さんの発酵の本を読んでいて、店内をぶらぶらしていたら、これは、碁石茶だ!と手に取った。誰もが見るものを、ひとと違った見方をすることの大切さを感じる。

  

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ある日。友人宅で七輪を囲む。鮎、じゃがいも、たまねぎ、猪。ほとんどすべて知り合いからいただいたものや、友人が作ったり、取ったもの。生きることを猛烈に意識しているひとたちとの話はおもしろいし、尽きない。生活は最高のエンタテインメントなのだ。

 

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秋のはじまり。稲が刈り取られ、いよいよ新米が登場し、イノシシにも魚にも脂が乗りはじめ、おいしいきのこもニョキニョキ生えてきます。普段から磨いてきた味覚の出番のようで、冬の寒さを乗り越えるために食べねばという言い訳をしながら、秋の味覚を堪能したい。読書に励みたい。旅に出向きたい。